構造化価値配分市場への移行と「資源観の転換」

いま起きている変化を、単にサーキュラーエコノミーの拡大とか、リサイクル政策の強化とかいう水準で捉えているだけでは、なかなか本質は見えてこない。見えているのは物質の循環であるが、実際に動いているのは価値の配分構造である。ここで言う「構造化価値配分市場」とは、価格だけで物が動く自由市場ではなく、制度、規格、データ、回収責任、トレーサビリティ、資金の流れなどがあらかじめ組み込まれ、その内部でどの主体がどの位置を占めるかによって価値の回収可能性が決まる市場を指す。価値は単に生産で生まれるだけでなく、どの流れに接続され、どのルールに適合し、どの情報基盤に載っているかによって最終的に確定するのであり、市場はもはや自然発生する場ではなく、設計された配分空間になりつつある。Hall と Soskice が制度の違いが資本主義の型を規定すると論じ、Kirchherr らがサーキュラーエコノミーは単なるリサイクルではなく system shift を要すると整理したことは、この転換の入口をよく示している。

この移行は、中国のような国家主導の経済だけで起きているのではない。むしろ中国では、それが制度として露骨に見えているだけであり、欧州では規格として、米国では投資条件や安全保障として、同じ方向の圧力が別の姿で現れている。だから、カジノ経済や売り切り経済だけが旧来型の自由市場にとどまり続ける、という理解はもはや難しい。投機であれ売り切りであれ、外部化しておけばよかったコストが、規制、供給制約、資源安全保障、資金調達条件を通じて戻ってくる以上、それらもまた構造の外では成立しにくくなる。この論点そのものは別論文で詳しく論じるべきだが、少なくともここで確認しておくべきことは、カジノ経済ですら無秩序を望んでいるのではなく、壊れない舞台の上で揺らぎを利益化したいのであって、その舞台を与えるのが構造化市場だということである。EPA が 2025 年を通じて全国的 battery EPR framework の検討を進め、DOE が電池回収・再利用・リサイクルの経済性改善に公的資金を投入しているのは、まさにその舞台装置を整えようとしているからである。

では、この構造化価値配分市場への移行の中で、資源の見方はどう変わるのか。ここが本論の中心である。従来の資源観では、資源とは自然界に存在する物質であり、埋蔵され、採掘でき、希少であるがゆえに価値を持つと考えられてきた。マルクス的な価値論は価値の起源を労働に置いたが、少なくとも物質世界について言えば、資源は外部から与えられる前提だった。宇沢弘文は、その利用を支える自然や制度を社会的共通資本として市場の外に置くべきだと論じたし、岩井克人は価値が物に内在するのでなく制度と信認によって成立することを明らかにした。さらに Birch は、価値は物質に inherent なのではなく valuation practices によって管理されるのであって、現代資本主義では assetization が重要になると論じた。ここまでは、それぞれ別の角度から、価値が物そのものではなく、制度と関係の中で成立することを示している。

しかし、いま起きている変化は、その先にある。資源はもはや「存在するもの」ではなく、「利用可能な状態に維持されているもの」へと変わりつつある。もう少し言えば、資源の availability は二層化している。第一層は天然的 availability、すなわち埋蔵量、品位、採掘可能性である。第二層は管理された availability、すなわち回収網、制度、トレーサビリティ、分離技術、再投入先を含んだ供給構造である。これまでは第一層が主であり、第二層は副次的だった。これからは第二層が第一層を上書きし始める。資源の価値は、どこにあるかだけでなく、どこまで回収され、規格化され、再び流れに乗せられるかで決まるようになる。したがって、希少性から有用性へ、という言い方も間違いではないが、より本質的には、天然 availability に加えて管理 availability が問われる時代に入った、と言うべきである。

この転換が具体的に見えるのが、中国の動きである。2025 年 12 月 27 日付の国務院「固体廃物総合治理行動計画」は、固形廃棄物の総合治理を美麗中国建設と全面的な緑色転換に結びつけ、2030 年までに主要再生資源回収量を 5.1 億トンへ引き上げる目標を掲げた。続いて 2025 年 12 月 23 日付、2026 年 1 月公表の「再生材料応用推進行動方案」は、再生材料利用の拡大を資源安全保障、産業チェーン・サプライチェーンの強靱化、カーボンピーク・ニュートラルの達成に結び付けている。ここでは、資源とは地下にあるものではなく、制度によって回収され、再材料化され、需要先まで含めて組み立て直された流れとして扱われている。

その中核にあるのが、2025 年 12 月 31 日公布、2026 年 4 月 1 日施行の「新能源汽车废旧动力电池回收和综合利用管理暂行办法」である。この制度は、全国トレーサビリティ情報プラットフォームを設け、電池コード付与、デジタル ID、メーカーの回収責任、販売量に見合った回収サービス拠点の設置、整備業者や解体業者から引き渡された電池の受入れ義務などを定めた。ここで資源とは、廃棄後に偶然回収されるものではなく、生産・販売・使用・修理・交換・解体・回収・総合利用までを通じて流れとして監視されるものになる。資源は「掘れるもの」から「最後まで追跡できるもの」へと変わるのである。

他方、米国では中国のように国家が一括して回収構造を作るのではないが、トランプ政権下でも、別の形で同じ方向の圧力が強まっている。2025 年 4 月と 2026 年 1 月のホワイトハウス文書は、processed critical minerals とその derivative products について、外国依存、価格変動、サプライチェーン脆弱性が国家安全保障上の問題であると明示し、輸入調整に踏み込んだ。これは「自由市場に任せる」のでなく、安全保障と供給構造の観点から資源を捉え直しているということである。米国は中国型の統一構造ではなく、関税、安全保障、補助金、州制度、企業契約の組合せで市場を締めていく。その意味でトランプ的な動きは、構造を直接デザインするというより、外部化を困難にすることで企業に構造形成を迫るやり方と言える。

この二つの例が示しているのは、資源がもはや自然的存在ではなく、国家や企業が支配する supply structure の内部で定義されるようになったことである。中国では制度が先にあり、米国では安全保障圧力と資金条件が先にある。しかし帰結は似ている。すなわち、資源は「市場に流れ込んでくるもの」ではなく、「供給構造の内部に確保されるもの」になる。このとき資源価格は、鉱山の品位や埋蔵量だけでなく、どの国が回収ネットワーク、再生材規格、トレーサビリティ、再投入先を握っているかによって左右される。価値は物質それ自体ではなく、物質が乗っている流れの統治能力に宿るようになる。Birch の assetization 論が示した、価値は物質に内在するのでなく管理実践の中で成立するという見方は、ここで資源論にまで拡張される。

では日本はどうなるか。日本でも変化は起きている。改正資源有効利用促進法では、一定製品について再生資源の利用計画や定期報告、環境配慮設計認定、再資源化の特例措置などが打ち出されており、経済産業省自身が「循環という戦略」と表現している。また、環境省は 2026 年 4 月 3 日、太陽電池廃棄物再資源化法案を閣議決定し、まずは多量の事業用太陽電池廃棄を行う者にリサイクルへの取組を義務づけ、認定事業者には廃棄物処理法上の許可特例を与えることとした。これらは、日本も「処理」から「構造」へと踏み出しつつあることを示している。だが、なお中国ほど統合的ではなく、米国ほど安全保障と直結してもいない。日本は依然として技術は強いが、構造形成では弱い。

その意味で、日本への影響は二重である。第一に、中国や米国、欧州が作る構造に適合しなければ、日本企業は市場に入れなくなる。第二に、日本自身が構造形成に遅れると、技術優位があっても価値配分の上流を取れず、部材供給や下請け的位置に押し込まれる。だから日本に求められる役割は、単に資源を回収することでも、単に優れたリサイクル技術を磨くことでもない。むしろ、日本が比較的強みを持つ素材品質、精密分離、LCA、トレーサビリティ、制度運用の信頼性を束ねて、「構造の質」を規定する側に回ることにある。中国のように量と速度で押すことは難しい。トランプ型の圧力政治を真似ることも難しい。しかし、日本は流れそのものを独占できなくても、その流れの信頼性、評価可能性、長期安定性を定義する側には立ち得る。宇沢が言う市場の外の基盤、岩井が言う制度による価値成立、藤井が言う公共的構造設計を、資源循環やサーキュラーエコノミーの現場に接続するなら、そこに日本の役割はある。

結局のところ、構造化価値配分市場への移行の中で起きている資源観の転換とは、資源を自然物として眺める時代から、流れとして設計し管理する時代への転換である。そこでは、資源とは「あるもの」ではなく、「回され続けるように作られたもの」となる。中国はそれを制度で先行している。トランプは別の仕方で、外部化を許さない圧力として押している。日本はまだ途中にいる。しかし、この転換をただ遅れて追いかけるだけでは足りない。資源の量を数えるだけの時代は終わりつつある。これから問われるのは、その流れをどのような構造で維持し、どの位置で価値を配分するかである。資源論は、もはや鉱山論だけではない。市場論、制度論、産業論を含む構造論に変わったのである。

■補遺:2026年イラン戦争が示した資源観の転換

本論で述べたように、資源はもはや「存在」ではなく「構造の中の流れ」として理解されるべきであるという命題は、抽象的な議論にとどまるものではない。2026年におけるアメリカおよびイスラエルによるイランへの軍事行動は、この命題を極めて具体的な形で可視化した事例である。

まず確認すべきは、この戦争によってイランの原油が消失したわけではないということである。油田は残り、埋蔵量も変わらない。従来の資源観に立てば、これは価値の本質には影響しないはずである。しかし現実には、同じ原油でありながら、その価格、流通可能性、評価は大きく分断された。制裁の強化、海上輸送の制約、保険引受の制限、決済ネットワークの遮断といった一連の措置によって、原油は「どこにあるか」ではなく「どの流れに乗るか」によって価値を持つようになったのである。

このとき、イラン産原油は完全に市場から排除されたわけではない。むしろ、中国や一部の仲介業者を通じて流通し続けた。ただしその流れは、いわゆる正規市場とは異なる構造に属し、価格は大きく割り引かれ、輸送経路や取引条件も限定される。ここで見えるのは、資源が「存在」していても、その流れが構造の外縁に置かれれば価値を減じるという事実である。逆に、同じ品質の原油でも、規制や金融に適合した流れに乗ればプレミアムが付く。この価格分断は、資源が構造内のポジションによって評価されることを端的に示している。

さらに重要なのは、価格変動の要因が変わっている点である。従来であれば、戦争は供給量の減少という形で価格を押し上げると理解されてきた。しかし今回の動きでは、価格は単純に上昇するのではなく、流通経路ごとに分裂した。制裁対象原油はディスカウントされ、同盟圏の供給はプレミアム化し、地域ごとの価格差が拡大する。すなわち、価格は需給ではなく構造によって分割される。これは、原油市場が単一市場ではなく、複数の構造市場に分解されたことを意味する。

投機の側から見ても、この変化は明確である。市場参加者はもはや戦争そのものを読むのではなく、戦争によってどのような制裁が発動され、どのルートが閉じ、どの金融条件が変わるかを読むようになっている。ボラティリティの源泉は、爆撃や戦線ではなく、制裁の設計とその運用に移っている。カジノ経済はここで、無秩序な不確実性ではなく、構造の再編によって生じる「制御された不確実性」に依存する形に変わっている。

売り切り経済の観点でも同様である。イランの原油は、採掘して売れば終わりという形では成立しない。誰に売るか、どの船で運ぶか、どの保険が付くか、どの通貨で決済するか、そのすべてが制約される。売り切りは可能であっても、その条件は構造によって規定され、自由ではない。ここでも価値は取引そのものではなく、取引が可能な構造に依存している。

中国の動きと重ねると、この構造化はさらに鮮明になる。中国は制裁下の原油を取り込みつつ、自国の回収・再生資源の制度を整備している。すなわち、従来型資源の構造分断を利用しながら、新しい資源の構造を先に確保する戦略である。地下資源の争奪から、地上の流れの支配へという転換が、ここでは意図的に進められている。

一方で、今回の軍事行動を含むアメリカの動きは、単なる資源確保ではない。制裁、関税、安全保障を通じて、資源を国家の管理する構造に再編しようとするものである。自由市場に委ねるのではなく、どの流れが許され、どの流れが遮断されるかを政治的に決める。この意味で、戦争は市場の外の出来事ではなく、市場構造そのものを再設計する手段になっている。

以上を踏まえると、2026年のイラン戦争が示したのは、資源の物理的な希少性ではなく、資源の「所属する構造」によって価値が決まるという現実である。同じ原油でも、どの制度に属し、どの流通網に入り、どの金融条件に適合するかによって、その価値は分断される。戦争は供給を断つのではなく、流れを分断し、再配分する。

日本にとっての含意もここにある。資源を持たないという従来の弱点は、そのままでは変わらない。しかし、価値が構造によって決まるならば、日本は流れの設計、評価、品質管理、トレーサビリティといった領域で関与する余地を持つ。一方で、構造形成に関与できなければ、どの流れにも深く入れず、価値配分の外縁に置かれる危険がある。技術だけでは不十分であり、構造への参加が不可欠になる。

結局のところ、この戦争が示したのは、資源はもはや地下にあるものではなく、流れの中で定義されるものであるという事実である。油田ではなく経路、埋蔵量ではなく接続性、希少性ではなく構造内の位置が価値を決める。資源観の転換は理念ではなく、現実の出来事としてすでに進行しているのである。

(原田幸明)

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