「太陽光パネルは“ゴミ”か“資源”か──廃PV法がつくる第三層と、循環の市場化という新しい経済」

「太陽光パネルは“ゴミ”か“資源”か──廃PV法がつくる第三層と、循環の市場化という新しい経済」
太陽光発電は、長らく「クリーンエネルギー」として語られてきたが、その裏側で静かに、しかし確実に現実になりつつある問題がある。それが廃棄である。2030年代後半以降、日本では太陽光パネルの排出量が急増し、年間最大で50万トン規模に達すると見込まれている。この量は、従来の廃棄物処理の延長線上では吸収しきれない。しかも問題は量だけではない。太陽光パネルは、廃棄物として扱うには量が多すぎ、資源として扱うには価値が低すぎるという、いわば「どちらにも収まらない存在」である。
今回閣議決定された廃PV法(太陽電池廃棄物の再資源化等の推進に関する法律案)は、この中途半端な存在に対して、正面から制度を当てにいったものである。ただしこの法律を、単なるリサイクル促進策として理解すると、本質を見誤る。この法律の核心は、リサイクルを増やすことではなく、これまで存在しなかった“層”を経済の中に作ろうとしている点にある。
従来の経済は、単純に言えば二つの領域で構成されていた。一つは廃棄物処理であり、これはコストとして処理される世界である。もう一つは資源利用であり、こちらは市場で価値を持つ世界である。ところが太陽光パネルのような存在は、このどちらにもきれいには収まらない。市場に任せれば回収されず、廃棄物として処理すれば処分場が持たない。したがって、その間に制度によって成立させる「第三層」を設ける必要が生じる。
今回の法律がやっていることはまさにそこにある。排出者に計画提出を求め、認定制度を設け、将来的な義務化の余地を残しながら、リサイクルを「やるべきこと」に変えていく。ここでは価格だけでなく、制度が流れを作る。つまり、市場でも廃棄物でもない領域を、制度で動かすのである。
この構造は、日本固有のものではない。中国のいわゆる「新三様」、すなわちEV、再エネ、蓄電池の分野でも、同様の構造がすでに現れている。そこでは生産と循環が一体化され、資源は単なる原料ではなく、循環の中で再編成されるものとして扱われている。これは単にリサイクルが進んでいるという話ではなく、循環そのものが市場として組み込まれているという点に特徴がある。
ここで起きている変化は、もう一段深い。従来、価値は資源そのものに内在すると考えられてきた。金属であれば純度が高いほど価値があり、量が多いほど経済的である。しかしこの第三層では、そうではない。価値は、制度、契約、トレーサビリティといった「構造」の中に埋め込まれる。つまり、何を持っているかではなく、どのように回すかが価値になる。この意味で、資源と価値の関係そのものが書き換えられ始めている。
このとき、国家と金融の役割は決定的に重要になる。国家は、何を再資源化と認めるか、どの水準まで回収するか、誰に責任を持たせるかといった「骨格」を設計する。一方で金融は、その骨格の上に乗るフローを資産として評価し、投資を流し込み、市場を拡張する。すなわち、国家が流れを作り、金融がそれを拡張するという分業が成立する。
この構造は、実はすでに別の形で現れている。カジノ経済では、価値は実体ではなくルールと期待によって生まれる。売り切り経済では、価値は製品ではなく販売構造の中にある。そしてサーキュラーエコノミーでは、価値は制度と循環構造の中にある。いずれも共通しているのは、価値が物から切り離され、構造に移っているという点である。
ただし、この構造は安定したものではない。制度が弱ければ、従来型の廃棄に逆戻りする。逆に制度が強すぎれば、補助依存の非効率が固定化される。金融が過度に入り込めば、炭素市場で見られたように、実体と価値の乖離が起きる。つまり、この第三層は、成功すれば新しい産業基盤になるが、失敗すれば単なるコストの塊にもなり得る。
したがって、問題はリサイクルを進めるかどうかではない。この制度が目指しているのは、廃棄物と資源のあいだにある空白を埋め、その上に新しい市場を成立させることである。そしてその市場は、従来の資本主義の延長線上にありながら、その内部の作動原理を変えていく可能性を持っている。
太陽光パネルは、エネルギーの問題であると同時に、経済の問題でもある。むしろこれからは、後者の意味が強くなる。廃棄物か資源かという問いは、やがて意味を失い、どのような構造の中で価値を持たせるかという問いに置き換わっていく。その最初の具体例が、今回の廃PV法なのである。
(原田幸明)
